もうすっかり夜だった。 男がタクシーに乗り込むとそこにはすでに女が乗っていた。 男は怒って、タクシーの運転手に、どういうことだ、とせまった。 あれ。たしかに空車だと表示が出ていたではないか。 運転手は横目で男をみてから、女に、ここで連れを拾っていくから、と、 そして、あなたがそうだから車を止めてくださいと申しつけられた、といった。 男はそこではじめて女の顔を見た。 知らない顔だ。 年は十七にも二十五にも見えるが、若い女だった。 明日は休みだ。このかわいいキチガイのたわむれにつきあってやってもいい。 それに、もしかしたらほんとうに知っている女かもしれない。 すでに車は走りだしていた。 男はまずきいた。 「お嬢さん、失礼ですが、どこぞでお会いしましたかな」 女は硬い表情のまましばらく黙っていたが、やがて小さな声ではなしだして。 お前さんが島根にお仕事で来なすった時です。 山間にある食堂でお昼をお食べになられたのを覚えておいででしょうか。 その時はおうどんをお食べになっておられました。 わたくしはそこの雇われ女です 女は妙な言葉づかいであった。 若いくせに似合わない古臭い言葉をつかっており 話の内容以前にひっかかった。 と、そこで男は気がついた。 タクシーの運転手はカーラジオからずっと落語を流して聞いていた。 小さな音だったが、この若い女はたしかにこのラジオからきこえる言葉を真似してはなしていた。 それがわかると、なんだか男は無性におかしくなり この若いお嬢さんの必死の狂言をどう暴いてやろうかと、胸の中で笑った。 たしかにぼくは去年出張で島根に行きました。 うどんを食べたのも覚えています。 だけどそこにあなたのような美しい女性がいたかな。 もしいたら覚えているとおもうのだが そういうと女はぽつりと、 「一つ半です」といった。 「一つ半?時間ですか」 「時間はまだ零時前だった」 「いいえ。あなたの…」といって、 女ははたと口をつぐんだ。 何かに気づいたように目と口を開いている。 そしてこちらをみていった。 「気づいておられないです?」 ぼくはなんだか腹立たしくなって ちょうど家の近くに着いたところだったので タクシーを降りてしまった。