第七課 本音と建前 本文 李さんは会社の仕事にも次第に慣れ、上司の信頼も徐々に増してきました。 今回は新しい取引先メーカーとの交渉を任され、無事、商談成立にこぎつけました。 木下課長は今後の付き合いを考慮にいれて、先方の長谷川部長を接待することにし、李さんはその準備を頼まりました。 場所は長谷川部長の好みに合わせてカラオケ・スナックになりました。 李さんは長谷川部長に楽しんでもらうために、雰囲気を盛り上げようと考え、まず、演歌を二、三曲歌いました。 けれども、日本人の場合は、自分が楽しむより相手を立てて楽しませることを第一に考え、接待します。 ですから、木下は困った顔をしていたのです。 カラオケに招待された長谷川部長さんが、楽しかった言ったのは「建前」なのです。 「本音」を言えば、自分が歌えなくてあまり楽しくなかったはずです。 しかし、長谷川さんは、会社の代表として、個人の感情を抜きにし、不愉快な感情を表に出さず、接待した側の会社に感謝したのです。 「建前」は、「原則として」とか、 「表向きには」という意味です。 公的な立場からの見解について述べるときに使われます。 それに対して、「本音」というのは、その人の本当気持ちです。 日本人社会は、人間関係を優先し、「和」を大切にします。 この和を保っためには、私的な感情を表面に出さず、原則である「建前」でコミュニケーションすることが必要になるわけです。 会話(カラオケ・スナックで) 長谷川 李さんは、演歌がうまいですね。 ホステス ほんとに。中国の方とは思えないぐらい上手よ。ねえ、木下さん。 李 そうですか?ほめていただいたのは初めてですよ。 じゃ、今度は、今とても流行っている歌を歌い余す。あっ、これデュエットだから長谷川部長も一緒にどうですか。 長谷川 いや、最近の歌はダメなんですよ。 李 あっ、そうですか。じゃ、ボク、みゆきさん(ホステスの名前)と歌います。 横山 長谷川さんの接待のために行ったのに、李さんが自分だけ楽しんで立って、課長、怒ってらしたわよ。 李 えっ!ほんとに?おかしいな。長谷川さん、帰るときに、「今夜はとても楽しかったです」っておっしゃってくださったよ。 高橋 それは、日本の社会においては建前っていうもんだよ、李さん。 李 タテマエか……。そういえば、この間お金集めたでしょ。 高橋 田村さんの結婚のお祝いのこと? 李 えん。田村さんの結婚のお祝いの回覧が回ってきたとき、 みんなが何も言わないで同じようにお金を出すのを見て、僕、驚いちゃった。あれもタテマエ? 横山 それは違うわ。同じ部の人がみんな出していれば、やっぱり、あたしもみんなと同じようにするわ。 それほうが、摩擦が起こらないから。 李 それは、自分に自信がないからでしょう。 横山 まっ、失礼ね。李さん、時々失礼なことをするわよ!たとえば、この間、営業一課で飲みに行ったとき、先に帰っちゃったでしょ。 あの後、みんなしらけちゃったのよ。 李 だって、僕、お酒、嫌いなんだ。 高橋 李さん、本音は僕だって同じだけど、それが会社の付き合いってものだよ。 僕も去年はそうだったけど、「新人類」なんて陰で言われちゃって……。 李 へえ、冷たくされたの? 高橋 まあね。今は違うけど。 応用文 日本人の人間関係 「旅の恥は搔き捨て」ということわざがある。旅に出たら、どんなことをしても許されるという意味だ。 昔の日本では、それほど簡単に旅に出ることはできなかった。 多くの人は生まれた土地を離れることなく、死ぬまで同じ所に住み、その上、厳しい上下関係の中に生きていた。 だから、旅行はその枠から出られる、ただ一つの機会だったわけだ。 それで旅に出たら少しぐらいの自由は許してもよいと考えたのだろう。 無礼講という言葉もある。 「今日は無礼講で飲もう」と言えば、その時だけは相手が自分より上か下かなどは忘れ、 失礼があっても少しぐらいなら気にせず付き合うことができる。 しかし、この時が過ぎれば、また厳しい上下関係に戻らなければならない。 しっかりと決められた社会の枠が壊れずに長く続いたのは、無礼講のような息抜きが時々あったからなのだろう。 現代の日本では、社会全体としての上下関係はほとんどなくなったとはいうものの、 昔とはまた違った集団の秩序がしっかりと出来上がっている。その集団の一つは会社である。 会社の中では相変わらず、社長、部長、課長、平社員という秩序が厳しく守られ、それを乱そうとする者はあまりいない。 ところが、会社の中の人間関係は気にかけるのに、会社の外の人に対しては、関心を持たない人も多い。 電車の中で、お年寄りが立っていても知らないふりをしていながら、 自分の先輩や会社の上司が乗ってくると、慌てて席を譲ったりすることさえある。 このような態度は「ウチ」と「ソト」という関係から説明できる。 自分の属している社会を「ウチ」といい、「ウチ」の者に対しては規律正しくその秩序を守るようにする。 一方、「ソト」に対しては「ウチ」に対するほどの関心を持たない。 外国人のことを「外人」というが、これもやはり同じような意識から出た言葉ではないだろうか。 何年日本に住んでいようと、日本人より日本的であろうと、いつまでも「外人」と呼ばれるという嘆きを聞いたことがある。 「日本人は確かに大変丁寧だが、ただし、それはお客様に対する丁寧さであって、 自分たちの社会には決して入れてくれない」という嘆きだ。「よそ者」というわけである。 このように、「ソト」の者をなかなか「ウチ」へ入れようとしないのは、 しっかりと出来上がった「ウチ」の秩序が乱されはしないかと心配し、入れないことで、 「ウチ」社会を壊すまいとしているからなのだろうが、これは日本だけのことだろうか。 単語 建前 増す 今回 取引先 メーカー 任す 商談 成立 こぎつける 考慮 木下 先方 長谷川 盛り上げる 立てる 代表 抜き 表 原則 表向き 公的 立場 見解 述べる 人間関係 和 優先 私的 表面 ホステス 流行る デュエット みゆき 一向(に) 横山 えっ 今夜 回覧 あたし 摩擦 白ける 新人類 陰 恥 旅の恥は搔き捨て 枠 無礼講 息抜き 秩序 平社員 乱す 外 年寄り 先輩 振り 規律 外国人 外人 嘆き よそ者