第十課 教育 本文 日本の現在の教育制度は六・三・三・四制と言われています。 これは六歳から始まって、小学校が六年、中学校三年、高等学校三年、大学四年という意味です。 そして、義務教育は初めの九年です。 義務教育の就学率百パーセント、識字率百パーセントという数字は日本が世界に誇るものです。 近年の統計では、高校への進学率にしても、大学への進学率にしても、とても高くなりました。 高校は義務教育ではありませんが、進学率は97パーセントに達し、都市部では事実上全員入学となっています。 しかし、希望する高校へ行けるとは限らず、不本意な入学が増えるなどの弊害が出ています。 大学への進学率も短大を含めて約50パーセントに達し、大衆化が著しくなっています。 しかし、大学の入学試験はとても厳しいです。 かつて「四当五落」なる流行語が生まれましたが、これは「睡眠時間を5時間も取っては合格はおぼつかない。 4時間で合格」という意味で言われたものです。 ですから、希望者の殺到する有名大学への門は依然狭いものとなっています。 日本の教育は目覚ましい量的発展を遂げましたが、知育偏重で画一的な教育に陥っています。 その結果、思考力や判断力、創造力、学ぶ意欲の低下のほか、いじめ、校内暴力、登校拒否などの状況を招き、 それらが教育改革の重要な課題になっています。 日本は高学歴社会で進学率が高いため、受験競争が激しくなっています。 いい大学に入るためにはいい高校、いい高校に入るためにはいい中学という具合にして、 多くの子供たちは小学校の頃から受験勉強を意識した勉強中心の学校生活を余儀なくされます。 その受験戦争の厳しさを象徴するものの一つが多くの学習塾や進学塾の存在です。 会話 (一) 李 鈴木さん、日本の教育制度はどうなっていますか。 鈴木 いわゆる六・三・三・四制になっています。 つまり小学校六年、中学校三年、高等学校三年、大学は四年です。義務教育は初めの九年です。 李 就学率と進学率はどうですか。 鈴木 義務教育の就学率は百パーセント、高校への進学率は97パーセント、大学への進学率も約50パーセントに達しています。 李 そうですか。各国の学力テストの結果を見ますと、日本の教育レベルがかなり高いようですね。 鈴木 その点が良し悪しなんですよ。 日本の教育はどうも知識習得面があまりに重く見られ過ぎるんですよ。個性を伸ばしていく教育面が二の次になります。 李 それはどういうところから来ているんでしょうか。 鈴木 私の考えでは、大学の入学試験が大きくかかわっていると思います。 その問題の根源には、良い大学に入れば、よい職業に就きやすくなるということがあります。 李 それで、みんないきおい入学試験を目指して勉強することになるんですね。 大学入試に落ちたらどうするんですか。 鈴木 たいていは予備校という大学の受験準備のための学校に入って、翌年の受験を目指すんです。 こういう学生を「浪人」と呼んでいます。 李 高校をよけい一年なり二年やるのと同じですね。 鈴木 そうなんです。浪人しないで有名大学に入るためにも、小学校の時から子供を塾に通わせ始める両親もそうとういるんです。 李 そうですか。その点は日本も中国も同じで、教育改革の重要な課題ですね。 (二)(ひろしさんは、今年高校を卒業しましたが、大学の試験に失敗してしまいました。) 父 ひろし、あれだけ勉強したのに、残念だったな。ああ、来年は頑張れよ。予備校の手続きは自分でできるだろう。 ひろし できるとも。でも……。 父 でもって。 ひろし 実は、大学へ行くのはやめようかと思って……。 父 えっ、何を言っているんだ。お前はお兄さんと同じ大学へ行きたがっていたじゃないか。 ひろし うん、ついこの間では大学生って何となく楽しそうに見えたからね。 でも、もう一年予備校で勉強しても入れるかどうか分からないし……。 父 大学へ行かないでいったい何をしようと言うんだ。 ひろし まだはっきりしないけど、しばらくはアルバイトでもしてみようかな。 父 何を、吞気なことを言っているんだ。 今の日本では有名な大学を出て、一流の会社に入って、そこで一生働くことが一番安定した道だということが分からないのか。 ひろし 大学なんか行かなくても食べていけるさ。 父 お前は考えが甘すぎるよ。まあ、兄さんが帰ってきてから、もう一度ゆっくり話し合おう。 お前の人生にとって大切な問題だから。(海外技術者研修協会『現代日本事情』等にもとづく) 応用文 福沢諭吉 福沢諭吉は、1835年1月、大阪に生まれた。 父の百助は、武士で、漢学に詳しく、立派な人物であった。 しかし、身分が低かったために、小役人として我慢しなければならなかった。 諭吉は兄一人、姉三人の末の子として生まれた。父は丈夫そうな赤ん坊を見てたいへん喜んだ。 そして、「この子は、大きなくなったら、坊さんにしょう。」と言ったという。 当時は、生まれながらにして、家業も身分も決まっていて、武士の子は武士に、農民の子は農民にと、その将来は定まっていた。 武士ではあっても、百助のように身分の低い家柄に生まれると、一生下級の武士として終わらなければならなかった。 ただ、寺の坊さんだけには、才能と勉強によって出世の道が開かれていた。 父が諭吉を坊さんにしようと言ったのは、そのためである。 しかし、その父は、諭吉が生まれて一年半ほどして、早くもなくなってしまった。 母は、5人の子供をかかえて郷里の中津に戻った。 諭吉は、すくすく成長して、大柄な少年になった。 ある日のことである。兄が、畳の上に保護紙を広げて整理していた。 諭吉がそこを通りすぎるとき、足がちょっと紙に触れたようであった。 すると、兄は、大声で諭吉を呼び止めた。 「待て、お前には、目がないのか。今、お前が踏んだ保護紙には、殿様のお名前が書いてあるのだぞ。」 兄は、刀に手をかけんばっかりの剣幕である。 諭吉は、すぐに手をついで謝ったが、心の中では不満でたまらなかった。 「殿様の頭を踏んだわけでもないのに。」と。 また、こんなこともあった。 下級の武士の家は貧しく、家来も置いていないので、酒や油などを買うのに、 夜になってから、頬被りをして、「自分で出かけるというのが習わしであった。 しかし、諭吉は、「自分の金で買い物をするのに、何が恥ずかしいものか。」と、昼間、ほおかぶりもせず、堂々と買い物に行った。 諭吉は、このように身分や体面ばかりを気にするような下級の武士の生活が、いやでたまらなかった。 19歳の時、諭吉は、とうとう中津を飛び出して、長崎に向かった。 当時、日本はまだ国を閉ざしていて、長崎だけが、オランダ船のために開港されていた。 長崎は、いわば、外国の事情を伝える唯一つの窓だったわけである。 諭吉は、長崎でオランダ語を3年余り勉強すると、やがて江戸へ出た。 江戸には、中津藩の屋敷があった。藩では、そこで、青年たちにオランダの学問を学ばせようとした。 諭吉は、その教師となって塾を開いた。 ところが、せっかく学んだオランダ語を捨てて、英語を学ばなければならない時がやってきた。 諭吉が塾を開いた翌年、江戸幕府は、それまでの方針を変えて、 長崎のほかに、横浜や函館などの港を開いて、外国船の出入りを許すことにした。 諭吉は、時代の動きをそこに見た。 世界の様子を知るためには、英語を勉強することが必要であると悟った。 しかし、英語を教えてくれる人は、そうたやすくは見つからなかった。 諭吉はけっしんをして、独学を始めた。 熱心に勉強して、諭吉の英語は次第に上達していった。 その後、諭吉は視察団に従って、三回にわたって、アメリカやヨーロッパを視察した。 これら三回にわたる海外観察で諭吉は「日本は、速やか」に開国し、各国と交流する必要がある」と、はっきり自覚した。 しかし、当時、開国について意見が対立し、諭吉のような考えを持つ者は、西洋かぶれした人間と誤解され、暗殺の危険さえあった。 諭吉は海外視察を終わって帰国すると、時の年号を取って、塾を「慶應義塾」と名付けた。 そして、科学と独立自尊の精神を教育の方針とした。 まもなく、明治の新政府ができ、江戸を東京と名を改めて首都に定めた。 そうして諭吉が考えていたように、日本は開国の方針を採った。 諭吉は塾で講義するだけでなく、多くの本を書いた。 自分の考えていることを、広く世の中に伝えようと思ったのである。 1872年には、「学問のすすめ」という本を出した。 その書き出しは「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」という、有名な言葉で始められている。 諭吉は、1901年、66歳でなくなった。 時代の先覚者として、また国民の教師として、今日でも、多くの人々から仰がれている。(石森延男編「新国語」による) 単語 制度 高等学校 就学率 識字率 進学率 事実上 全員 不本意 弊害 短大 なる 流行語 睡眠 おぼつかない 殺到 目覚ましい 量的 知育 偏重 画一的 陥る 思考力 判断力 創造力 意欲 低下 校内暴力 登校拒否 高学歴 余儀ない 象徴 学力 善し悪し 二の次 かかわる 根源 就く 勢い 目指す 予備校 翌年 浪人 よけい 手続き 何を 一流 話し合う 吞気 福沢諭吉 百助 漢学 小役人 赤ん坊 坊さん 生まれながら 家業 子 定まる 家柄 下級 出世 早くも 郷里 中津 すくすく(と) 大柄 畳 保護紙 呼び止める 殿様 剣幕 手をつく 家来 置く 頬被り 堂々(と) 体面 長崎 閉ざす 開港 言わば 藩 屋敷 幕府 方針 函館 港 外国船 悟る 容易い 見つかる 独学 視察団 視察 速やか 開国 自覚 西洋かぶれ 誤解 暗殺 年号 慶応義塾 名付ける 独立 自尊 改める 講義 書き出し 先覚者 仰ぐ