第十六課 五十嵐勝さん 本文 これは30数年前の話である。 五十嵐勝さんは日本の船橋市で八百屋を営んでいる。 1982年ごろから個人的に続けてきた日中友好活動が「人民日報」と雑誌「人民中国」に紹介されたのがきっかけとなって、 その業績を描いた映画「北京の西瓜」が大林宣彦監督によって1989年に完成され、そして倉石武四郎賞を受賞した。 1992年に中国留学生公園協会を設立し、その会長となる。 五十嵐勝さんは中国ではもう大変な有名人である。 特に日本に留学した者は誰でも知っている。 留学生の成田空港出迎え、保証人引き受け、宿やアルバイトのあっせん、そしてホームパーティー。 そのため家業の八百屋がおろそかになり、借金が溜まって、店と自宅が競売されそうになったことまである。 会話 記者 五十嵐勝さんは熱心に中国人留学生の世話をしてくださるそうですが。そのきっかけはどんなことだったのでしょうか。 五十嵐 私の店の近くに、中国人留学生のための船橋寮というのがありましてね、 その留学生たちが野菜を買いに店へ来るようになったのが始まりでした。 記者 彼らに値切られて頭へ来たとか……。 五十嵐 そうなんですよ。一束五十円ホウレンソウを二十円も三十円も負けろ、と言うんです。 私は商人で金儲けが大好きですからね、いやだなと思いましたよ。 それで彼らがやってくるのを見ると、五十円の値札を八十円につけ変えて「まあいいや、五十円に負けとこう。」すると、 「五十嵐さんがこんなに負けてくれた!」とみんな実に売れそうな顔をするんですね。 そんなことを四、五日やってるうちに、私も気が咎めてきました。 こんなに私を信用してくれる人間がこの世の中にいたのか。 それをだましていいものだろうか。 信用してくれた人間を手玉に取るような真似はもう一切やめようと思った。 それ以後はもうけを少なくして、本当に安く売るようにしたもんだから、 うちの店に買いに来る留学生がだんだん多くなり、親しくなっていった、というわけです。 記者 89年に五十嵐さんのことをえいがにした「北京の西瓜」という作品が公開されましたね。 大林宣彦さんの監督で。あの映画は「人民中国」で五十嵐さんのことを紹介した記事から生まれたものとか。 五十嵐 そうなんですよ。 たまたま大林さんたちの一行が中国からの帰りの飛行機で「人民中国」をめくっていて見つけたんだそうです。 記者 あの映画にはとても感動させられました。 五十嵐 映画にも出ていましたが、私が初めて寮の忘年会に招かれたとき、皆さんから、 「ニイハオ、ニイハオ。」と熱烈に歓迎していただきました。 テーブルの上には、私の店の野菜を材料にした料理がたくさん並んでいます。 ギョーザやら、炒め物やら、どれもこれも実にうまかった。 記者  お宅でもよくパーティーを開いて留学生を読んでくださるそうですが……。 五十嵐 月に一回やってます。30人ぐらい招いてね。 この十年でうちのパーティーに出た留学生はおよそ4000人になります。 記者 それじゃあ、お金が大変でしょう。 五十嵐 狭いところだし、たいしたご馳走はしません。 私のほうでビールやギョーザ、料理の材料をどっきり置いておいて、作るのは留学生。その方が楽しいんですよ。 記者 映画「北京の西瓜」に五十嵐勝さんが成田空港で 「林正忠様の愛人様歓迎」と書いたプラカードをかかげで待っている場面がありましたが、あれは本当のことですか。 五十嵐勝 そうですよ。留学生やその家族を成田空港へ送り迎えするのも、私の重要な仕事になっています。 その日、林正忠さんという留学生から「妻が日本に来るのだけれど、荷物が多いので、出迎えに行ってもらえないか」と頼まれました。 彼は学校から直接空港へ行き、私はワゴン車を運転していた行くことにしたのです。 ところが、飛行機が到着したのに、林さんはまだ来てません。 仕方なく私はいつもワゴン車に置いてあるプラカードに「林正忠様の愛人様歓迎」と書き、それを掲げてロビーで待っていました。 中国では「愛人」は配偶者のことだが、日本ではまるで意味が違うでしょう。 周りからニヤニヤ笑われてしまって、あれは閉口した。 記者 成田空港へ行く時、お店の方は? 五十嵐 平均して月に四、五回行ってますが、まず一日仕事ですからね。 女房にやってもらうしかない。 記者 奥さんも大変ですね。 五十嵐 最初はよく夫婦喧嘩やりましたね。 「俺のやってることは正しい。だから俺についてこい。 女のくせに、文句があるなら出て行け」なんて怒鳴ったことありました。 今は喜んで一緒に留学生の面倒を見ています。 記者 私に言わせれば、五十嵐さんはまさに「日本の雷ほう」ですね。 五十嵐 何回も中国の人からそう言われましたよ。 私そんな人知らないんで、「雷」という字を見て、「えっ?なんで俺が雷おやじなんだ」と首をひねりましたか。 記者 留学生のことで商売がおろそかになって借金が貯まったため、とうとうお家を競売にかけられる破目になったそうですが……。 五十嵐 私はもともと福島から集団就職で上京してきた人間でね。 いろいろやったあげく、八百屋商売があたって、結構順調だったんですが、留学生に入れあげて、すっかり落ち目になった。 理由が理由だけに、後悔はしませんでしたが、さすがに参りました。 日本の「読売新聞」に「日本のお父さん映画化――八百屋はピンチ、それでも意気盛ん」という記事が大きく載りました。 間もなく、留学生たちが「五十嵐さん緊急援助会」というのを作り、千円、二千円と出しあって百十六万円の小切手を渡してくれました。 借金の額はとてもそんなものじゃなかったですが、留学生たちがせっせとかせいだお金ですからねえ、涙が出るほどうれしかった。 記者 中国からもいろいろあったそうですね。 五十嵐 ええ、北京、上海、天津、南京、そんな大都会ばかりでなく、湖南、福建、江西からも手紙や送金がありました。 中国からも援助の手を差し伸べてもらえるなんて、考えもしませんでした。 記者 今度、念願の「中国留学生後援会」が発足したそうですが、おめでとうございますと言うべきか、ご苦労様と言うべきか… 五十嵐 一人の力ではどうしても限度があります。 協会ができて力強い輪となれば、もっと多くの留学生の面倒を見ることができます。 記者 私も留学生のオービーとして、心から感謝いたします。 応用文 特別診療 それは三十数年前、日本留学中のことであった。 私をずっと苛んでいた歯の病気はひどくなる一方だった。 一週間寝たっきりで食べることも、寝ることもできなかった。 日本の医療費は非常に高いから、これまで歯科病院に行くことができなかったが、 今度はどうしても我慢できず、近くの山田歯科病院の山田院長に身でもらった。 六十五歳の山田先生は私の歯を詳しく検査してから、「四本の歯がすごく悪くなっている。 どうしてこんなにひどくなるまで歯医者に行かなかったのか。 お金が原因だろうか。」と私に聞いた。 私は恥ずかしくてうなずいた。 そこで、山田先生が私の肩をたたきながら、「これからあなたはここに来てください。お金のことは心配いりません」と優しく言った。 わたしは山田先生も顔を見ても、納得できない気持ちだった。 日本に来てから、お金の問題でこんな経験をしたことがなかったので、自分の聞き間違いではないかと疑った。 そうして、山田先生は紙と鉛筆を出して、先に「円」という字を書いて、それから「円」の前に太い字で「0」を書いた。 こうして、私のための二十回あまりの「特別診療」が始まった。 治療中、先生が時々自分の青年時代のドイツでの留学の体験を私に話した。 一番困ったのはやはりお金がなかったことだ。ドイツ国内を旅行する時も、徒歩とトラックだったそうだ。 先生は「留学生活は私の人生の中で一番困難な時期でしたが、当時に私の人生の中で一番価値がある時期でした。」と言った。 そして、「だから、あなたの今の状況は、私は理解できます。 私の力の及ぶ範囲で援助したい。あなたはどのような困難にあっても、頑張らなければなりません。 この貴重な留学生活を大切にして、たくさん勉強して、将来は人類に貢献してください。 あなたの国はあなたたちを待っているから、頑張ってください。」と言った。 最後の治療は土曜日の休みの日だった。 その日は山田先生が早く病院に来て、四時間も治療してくれた。 そして、回復した私の歯を見て大変喜んでくれた。 先生の疲れたけれども喜びにあふれている顔を見て、私は万感が胸に迫った。(日本国際交流研究所編「日本」にもとづく) 単語 五十嵐勝 船橋市 八百屋 人民日報 人民中国 業績 西瓜 大林宣彦 監督 倉石武四郎 受賞 後援 設立 有名人 成田空港 保証人 宿 斡旋 疎か 自宅 競売 値切る 頭に来る 一束 ホウレンソウ 負ける 金儲け 値札 …とく 咎める 気が咎める 信用 手玉に取る めくる どっさり(と) 林正忠 愛人 プラカード(placard) ワゴン車(wagon~) 到着 ロビー(lobby) 配偶者 まるで ニヤニヤ(と/する) 怒鳴る 雷鋒(らいほう) 雷 首をひねる 破目 福島 順調 入れあげる 落ち目 後悔 読売新聞 映画化 ピンチ(pinch) 意気 緊急 小切手 額 せっせと 天津 稼ぐ 湖南 福建 江西 送金 差し延べる 念願 発足 力強い OB(オービー) 診療 苛む 医療費 歯科 院長 検査 納得 疑う 徒歩 時期 回復 万感 胸に迫る